掘 英郎 Hideo Hori
栃木県日光市に生まれる、オーストラリア シドニー在住。
転売アカデミー 代表
アマゾン輸出の作業時間を増やすために転職するという手もあります。
あきれるほど転職して分かったことが3つ
労力と報酬は一致しない。
住宅ローンやゴールドカードの審査は会社や職業によってかなり優遇や冷遇がある。
面接にはコツがある。
私自身の職歴を正直に書きます。
私に転職相談をしたことがある人は、募集広告の内容だけでどんな会社かほぼ正確にわかることを不思議がっていました。
たくさんの求人広告を見て、たくさん転職したお陰です。
始めて働いたのは家の手伝いです。
リネンサプライと言ってホテルなどにシーツやタオルをレンタルする会社でした。
パートさんが20人くらいいたのですが夏休みや冬休みは繁忙期なので良くバイトに狩り出されました。
すごく嫌でした。
シーツは汗臭いし、何よりも約束したバイト代を値切られるのが気分悪かったです。
また夏は釣りに行きたいのでよく断りました。
すると父の機嫌が悪くなり殴られたりしました。
今にして思うと観光地としての日光の人気が下降線だったこととライバルが増えたために厳しい経営状況になっていたのだと思います。
家族総出で頑張って、休みなく働き、結局倒産しました。
儲からない商売を努力で何とかしようとするのは虚しいことだと思います。
私が大した努力をしないでも儲かる商売にこだわるのは、儲からない家業のリネンサプライで苦労したことに影響を受けています。
次に新聞配達をしました。
働いた、きっかけは忘れましたが良い経験でした。
小学校5年の時から1年ちょっとやっていました。
朝は早いし天気が悪い日もあります。
そして日光は寒いのです。冬は氷点下が当たり前。
正直かなりしんどかったです。
でも、この経験を基準に考えると、どんな仕事も大抵大した苦労はなかったです。
新聞配達の時に餅屋さんに声を掛けられて正月のモチ配りのバイトをしました。
餅屋さんは新聞配達の人に毎年頼んでいたようです。
なかなか良い求人方法だなと感心しました。
高校に入ってからは学校帰りにデニーズでバイトをしました。
しかし、バイトまでの時間にパチンコで時間を潰していたのでバイト代の数倍の負けを喫しました。
夏休みや週末は日光レークサイドホテルで住み込みのバイトをしました。
昼間は中禅寺湖のボート番、夜はホテルのレストランの皿洗いのバイトです。
なかなか楽しい経験でした。
高校卒業後は不本意ながら家業に従事しました。
本当はシェフになりたかったのですが、数年で良いから手伝ってくれとのことで父と一緒に働きました。
私は商業高校を出て簿記の資格もあるので経理をやりました。
とんでもない赤字、よく綱渡りしているなとのマイナスのキャッシュフローでした。
父は選挙や政治が好きなので、そのつてで借金をする能力だけは高かったです。
年商1億円、借入れ3億円、借入れは5年で償却する機械設備やもっと短期で償却するリネン類です。
だめだなこれは負け戦確定。借金能力の高さが傷を深くしているなと思いました。
私が父に「この仕事を続けるのは嫌だ。」と宣言して廃業することになりました。
廃業後(と軽く言っても3億の借金があったので色々ありました)規模を縮小してドライクリーニングだけは続けました。
しかし、クリスマスの日に急に、そんな生活に耐えられなくなりました。
今のまま、あるいは今の延長で生きていても楽しくないなと。
そして車に荷物を積み込んで家出して東京に向かいました。
翌日、東京について「東京で暮らすことにする。もう家には戻らない。」と母に電話しました。
家出はあまり褒められた行動ではありません。
しかし、私の人生で最高の決断はこの家出を決行したことです。
この家出で学んだ3つのこと。
すごく大変だと思うこともやってみれば大したことじゃない。
思い切ったことをしないと人生が劇的に変わることはない。
直感に従って思い切った行動をしたほうが人生が面白くなる。
上京後、伯父の紹介で浅草の割烹料理店で働きました。
住み込みで毎日12時間働いて給料9万円です。
しびれました。
給料9万円では食べ歩きもできません。
池袋にアパートを借りて何個かバイトを掛け持ちすることにしました。
池袋パルコの中華料理店 あまりにハードで真っ黒なブラック職場なのに嫌気がさして3日で辞めました。
吉野家 こちらもキツくて3ヶ月で辞めました。
ディズニーランド これは金にはなりませんでしたが、とても楽しかったです。
給料が安くても楽しい仕事もあると気がつきました。
浜松町のフランス料理店 こちらは調理場ではなくホールを担当しました。
調理場に比べると楽なもんでした。
しかし、スーパーで働いたことをきっかけに飲食で働くのは辞めました。
浜松町の丸正ストア 飲食のバイトばかりしてきた私には衝撃的な仕事でした。
補充作業をする振りをして雑談したりタバコすったりしていました。
飲食で働いたあとは疲れてぐったりですが、スーパーの補充作業は何時間してもほとんど疲れません。
このときに選ぶ職業によって労働力はこれほど違うのかと衝撃を受けました。
株式会社アットホームに入社、
株式会社アットホームとは
不動産業者向けに不動産情報配布する会社
つまり不動産転売のための情報を配る
初めの半年は総務部で給与係
給与計算のためにIBMのシステム36といコンピュータを入れたところだったので、200名ほどいたアルバイトの給与計算やコンピューターシステムのバグだしなどをしていました。
しかし、総務には私は、にぎやか過ぎたようで営業に飛ばされました。
これがまた同じ会社とは思えないくらい大変な仕事でした。
思い出しても寒気がするくらい劇的に大変な仕事でした。
毎日200km以上、走り回って恐ろしい不動産業者(30%くらいはヤ○ザです)を回るのです。
そして朝8時から夜9時まで働いて給与は250万円。
時はバブル絶頂期、転売で儲ける不動産業者にあこがれ不動産業者に転職しました。
この時アットホームの営業部長は「不動産業者に転職したらつぶしが効かない」と言いました。
羨ましい状態にいる人のアドバイスは聞く価値があります。
しかし、気の毒な状態にいる人のアドバイスは気にしないほうが良いです。
結果から言うと、あのままアットホームに居たらつぶしが利かないといういうか私が潰れていました。
そして今、海外で暮らせています。
あれこれやった経験があるほうがつぶしが利きます。
このときは月給50万円稼げたらよいなと思って
高田馬場にあった投資マンションを電話営業で売る会社に転職しました。
初めの4ヶ月はまったく売れませんでした。
しかし、あるきっかけで売れるようになりました。
すると、このままマンションを売っていてもつまらないと思うようになりました。
そんな時にアットホームで一緒だった人にバブルスターというマルチに誘われました。
頑張れば月100万以上稼げるとの話を鵜呑みにして本業にして取り組みました。
結果惨敗、私にはマルチレベルマーケティングは向いていないと痛感しました。
時は、バブル真っ盛り、お金なくなったらマンション売れば稼げるからと軽い考えでアメリカに留学しました。
語学留学で渡米するもカジノ(ブラックジャック)にはまり借金を作る、
湾岸戦争でアメリカの雰囲気が悪くなったことも重なり帰国。
ダイホーエステート 電話営業で投資マンションを売るのは一緒だか以前の会社とはあまりに勝手が違って全く売れませんでした。
マイシティ21 賃貸営業の会社 霞が関店 ブラックで息苦しい会社でした。1月ほどで辞めました。
ビケンエステート 代々木にある賃貸営業の会社 マイシティ21にいたときに電話で物件確認してノリが良いので話して遊びに行きがてら面接をして貰って転職しました。
あまりに自由な社風があったのか2ヶ月目には手数料収入200万円を超えました。
ラ・テール ビケンエステートの先輩に誘われて転職しました。
高円寺は地域が合わないのか、あまり稼げなくなりました。
ラ・テールの経営が厳しくなって完全歩合への移行を宣言されました。
このままではジリ貧だなと思って辞めました。
完全歩合制の電話加入権の訪問販売でテレテレと働き、夜な夜な六本木でカラオケを歌っていたら
借金が800万円に(金利28%とか32%です当時は)
さらに、バイクの整備中にチェーンに指を巻き込みケガ
訪販は出来なくなったので、投資不動産販売で借金を完済することを決意
いよいよケツに火がついたので赤坂の投資マンション販売会社に転職しました。
この会社には3年いました。
毎月の借金返済が50万を越えていたので4の5の言ってられません。
めちゃくちゃな電話営業でしたが売りまくりました。
稼げる仕事でも稼ぐ必要が無い人は稼げないです。
稼ぎにくい仕事でも稼ぐ必要がある人は稼げます。
それを痛感しました。
電話営業で投資マンションを販売する会社に勤務して借金完済
投資マンション販売とは
主にワンルームマンションを
市場から適当に集めて
・・・数打てばあたると電話で営業して販売する仕事
100人入社して1年後には5人残るかどうかだが残れば
年収1000万円以上は稼げる仕事
この会社で年収が1200万円を超えました、そして借金を完済しました。
しかし、この仕事をずっと続けるのは嫌だったので給料は安くなるのは覚悟の上で転職しました。
このときにリクルートの転職相談を受けました。
相談員に「あんたみたいな人を雇う会社はない」と言われました。
まあ、あんたを雇う会社があるんだか俺を雇う会社もあるだろうと思いましたが話しても時間の無駄なので退散しました。
大手不動産会社
野村不動産
東洋住宅販売(東洋信託子会社)
三菱地所住宅販売
1998年 新宿区中里町に自宅マンションを購入、2年後に200万高く売却。
同 年 同マンションの別室を親に勧めて購入、9年後に1380万高く売却。
2000年から趣味で個人輸入を始める
まず買ったのはルイヴィトンのバック
不動産買い取り営業に従事
インテリックス関連会社 さっぱりでした。
ビクセル こちらは勤め続ける根性がなかったです。
大和住販 フルコミで入ったものの稼げなくて辞めました。
ムゲンエステート 社風があったのかトップセールスになり年間12億円売ってました。2位の人は年間2億。
500万円のワンルームマンションから
4億円ほどの一棟ビルまで買っては転売していた
2006年
100万円の元手から
自分でもワンルームマンションの転売を開始
1件当たり200万円ほどの差額で転売
2010年9月3日ドラえもんの誕生日に1冊目の本を出版しました。
『趣味力でがっちり稼ぐ個人輸入』
2011年8月福岡に引越し
ネットで稼ぐためのパソコン教室転売アカデミー主催
アマゾン輸出ノウハウを教える。
2013年12月オーストラリアに引越し
保有資格
不動産コンサルティング技能士
マンション管理士
宅地建物取引主任者
ファイナンシャルプランナー
好きな言葉
お気楽
想像できるなら実現できる
笑う門には福来る